野呂 介石 のろ かいせき
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箱書きは村田香石先生 | |
29.6p×27.3p×52折 |
延享4年1月20日(1747年3月1日)生〜文政11年3月14日(1828年4月27日)歿 |
江戸後期の南画家。 名ははじめ休逸であったが、のちに改名して隆または隆年の二つの名を混用した。字を松齢、号は介石のほかに班石・十友窩・澄湖・混斎・台嶽樵者・第五隆、晩年になって矮梅居・四碧斎・四碧道人・悠然野逸と号している。通称を弥助、後に九一郎、喜左衛門と称した。 紀州和歌山城下の湊紺屋町、町医 野呂高紹の三男として生まれ、10歳の頃より藩儒 伊藤長堅(蘭嵎)に儒学を学んだ。寛政5年(1793)、47歳で紀州(和歌山)藩に医業をもって仕えた。 画は墨竹などを好み、14歳にて京都に出て黄檗僧 鶴亭(海眼淨光)について長崎派の画法を修める。次いで21歳の時、池大雅について南画の技法を修得した。師を深く敬愛したが、28歳の時大雅を失う。このころ清の来舶商・画家 伊孚九に私淑し影響を受けている。 大坂の木村蒹葭堂や紀州の先輩 桑山玉州とも親しく交流し画業の研鑽に励み、名を成すようになる。山水画にすぐれ、熊野山中・那智の滝・和歌浦などを描いた作品を残した。その画風は極めて穏和で、大雅には似ていない。代表作に「金箋山水図」「那智三瀑図」「夏景山水図」など、画論に『介石画話』がある。 江戸には2度赴いた記録があるが、晩年には江戸詩壇の大窪詩仏・菊池五山との交わりがあった。その他に頼山陽・頼杏坪・篠崎小竹・田能村竹田・本居大平などの交友が伝えられる。 兄と慕うひとつ上の桑山玉州とともに南画会の双璧と評されている。また長町竹石・僧愛石とともに「三石」とも称されている。 推奨サイト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%91%82%E4%BB%8B%E7%9F%B3 https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E5%91%82%E4%BB%8B%E7%9F%B3-17499 http://edo-g.com/men/view/162 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/87266 |